中上級「作文」 2025年冬学期

思い出の映画
アルバ(フランス)
 私が四才ときに見た映画「クマになりたかった子ども」は、私の人生で最も印象的な作品の一つだ。今でもよく覚えている。
 私の母はこの映画のDVDを買ってくれ、家族みんなで自宅で一緒にそれを見た。この映画は、人間の赤ちゃんがホッキョクグマに育てられ、クマになりたいと願うものの、自分が人間であることに気付き、その本当の姿と戦う物語だ。この映画を見たとき、私はその男の子の苦しみと悲しみを理解できたことに驚いた。四才の私でも彼の痛みを感じとり、涙が止まらなかった。特に、母親を失うシーンが非常にリアルで、私だけでなく、家族全員が一緒に泣いていた。その後、私はこの映画を何度も見た。四年ごとに「クマになりたかった子ども」を見る習慣がある。そして、いつも毎回同じように泣いている。
 深く心に刻まれたセリフは「誰がいるの。孤独と呼ばれるのは君なのか」だ。この言葉は、私にとって非常に深い意味を持つ。したがって、このセリフを自分の体に刻みたくなるほど、この映画が私に与えた影響は大きい。
 この映画を通し、男の子が直面する痛みや恐れ、悩みは、たとえファンタジーの物語であっても、誰もが共感できるものであると感じた。自分の本当の姿を受け入れることや大切な人を失うことになり、そして、その痛みと戦うことは、どんな年齢でも理解できる普遍的なテーマなのだと思う。

思い出の物
リカ(ロシア)
 シンプルなブレスレットについて少し話したい。それは夫と私を繋ぐ思い出の物。今、夫と別々に暮らしており、彼はまだロシアに住んでいる。とても寂しいが、毎日たくさんSNSで喋っている。そして、手元に残る物として、彼を思い出せる物がいくつかある。そのブレスレットもその一つ。
 昔々、15年前、オンラインゲームで未来の夫に出会った。実際に会った後、彼はすぐペアブレスレットを買った。私たちはそのブレスレットを外さずに身につけていた。留め具の付いた長い革ひもだけだったが、とても大事な物だった。
 付き合い始めた頃は、そのブレスレットをいつも身につけていたが、その後は一緒に暮らし始め、あまり身につけなくなった。しかし、日本に来た時、そのアクセサリーは私と夫を繋ぐ大切な物になった。 
 残念ながら、先日ブレスレットは壊れてしまい、とても悲しかった。だからこそ、プレスレットを偲んで作文を書いているのだ。
 今、ブレスレットなしで少し寂しいけれど、夫が早く来て、彼を思いだせるモノなんて何も必要なくなることを願っている。そして、新しいブレスレットを新しい生活の象徴として日本で買いたいと思う。

思い出の料理
カイン(台湾)
 子供の時、すごく偏食だった。食事の時、食べる量が少なかったので、よく両親を困らせた。そして好きな料理はたった一つだけだった。それは母が作ってくれたお粥である。たまごを粥に加え、味付けは醤油だけ。シンプルで優しい味のたまご粥だ。
 この料理は最初、私が病気や風邪などの時、母が作ってくれたお粥だった。しかし、私があまりにもこの料理を気に入ったので、健康な時も母に作ってもらった。それから、母が徐々に週三、四回作るようになった。けれど、お粥だけでは栄養が偏るので、両親に「他の食べ物も食べさせなさい」といつも言われた。私もたまご粥のおかげで、食欲も増した。次第に肉や魚、野菜なども食べられるようになった。
 私はいろいろな国のグルメを食べてきた。ただ大人になった今でも、母の手料理が恋しいと思っている。実は、私の母は料理があまり得意ではない。時短のため、母が料理を作っている時、コンロの火はいつも勢いが強い。そのせいで、フライパンが焦げ付いたり、料理がすぐ焦げたりしている。私が大好きなたまご粥も少しだけ焦げた味がする。これはたぶん焦げた醤油の味だろう。この味はとても真似できない、母の手料理の味だ。だから実家に帰った時、いつも、母に作ってと頼んでいる。
 日本に留学している今、節約のため自炊するようにしている。ただ私が作ったお粥はどうしても一味違う。私にとって母が作ったたまご粥は特別で思い出深い料理だ。

思い出の場所
ロビン(スウェーデン)
 私の記憶の中でとても大切にしている場所は、子供の頃よく行ったゲーム店だ。
 私が六才くらいの頃、母は大学で勉強をしていて、私が家で一人になるのをいやがって、時々レッスンに母と一緒に行くことがあった。その後、私たちはよくその店をおとずれ、私はゲームを見たり、母はよくポケモンカードを買ってくれたりした。そして、うんが良ければ、ニンテンドー64のゲームを選べることもあった。ポケモンスナップを買ってもらった日はよく覚えている。
 スウェーデンでは、残念ながらゲーム店はもう残っていない。なぜなら、皆たいていオンラインやマルチメディアショップでゲームを買うからだ。
 私はウメオという街で生まれたが、十才のときにストックホルムに引っこした。だから、地元に行くたびにウインドウショッピングが好きで、今でも思い出のゲーム店に行くことを想像するが、もうないので毎回がっかりする。
 今はゲームをダウンロードするのが流行っているのは知っているが、日本ではまだ本物のゲームを買うのが人気らしく、とてもうれしい。私は今でもゲームをあつめるのが大好きなので、日本のレトロゲーム店をおとずれると、思い出の中の大切な店をおとずれていた子供の頃に、タイムスリップしたような気分になる。

会ってみたい人
エリ(アメリカ)
 皆にも会ってみたい人がいるであろう。私は子供の頃からJ.K.ローリングに会いたいと思っていた。
 J.K.ローリングは『ハリー・ポッター』という本でも有名な作家である。ハリー・ポッターを読み始めるとすぐにそのストーリーに夢中になった。今では私にとって、その小説は新しい世界への橋みたいな本である。
 また、私は若い時からJ.K.ローリングのようなストーリーを書いて、ファンタジーの世界を作ることが大好きである。それで、機会があれば、せめて一時間だけでも喫茶店で一緒に彼女と話がしたいと思う。
 もし面白いストーリーを書きたければ、ミューズを見つけるしかないだろう。J.K.ローリングを私のミューズとして、たくさん質問をしたい。例えば、彼女は物語をどのように生み出すのかや、どうやって『ハリー・ポッター』のキャラを考えたのか、どうやって仕事しながら小説が書けるのかなど尋ねてみたい。J.K.ローリングの感動を生む筋書き作りの手順についても興味を持っている。
 しかし、実際には起こる可能性がないのに、もし、J.K.ローリングに紹介されれば嬉しくてならないだろう。あたかも、素晴らしい本のごとく、彼女との時間は宝物なのである。印象的な小説の言葉は人々の耳や頭に届くだけではなくて、さらに、人々の心に届く、私もJ.K.ローリングのように、そんな『プレゼント』を世界に与えたいと思う。

会ってみたい人
レイ(香港)
 「よく書き、よく読む、よく見る」これは私のおばあちゃんが大切にしていた言葉です。おばあちゃんは、書道を通して学ぶことの大切さを教えてくれました。私が会ってみたい人はおばあちゃんです。
 おばあちゃんは、厳しい人ではなく、家族全員にとても優しい人でした。幼い頃から私を育ててくれた、大切な存在です。私が落ち込んでいるときには、そっと寄り添い慰めてくれました。そして、たとえ自分が間違えたとしても、素直に謝る姿は、人生で最も尊敬すべき長所として、私の心に刻まれています。
 私たちは、おばあちゃんと伯父、そして私の三人で暮らしていました。おばあちゃんは言葉にしなくても、私のお腹が空いていることに気づいてくれました。そのような細やかな気遣いは、家族を見守り続けるおばあちゃんの優しさを象徴しています。
 小学生の頃、おばあちゃんと一緒に遊園地に行ったり、服を作ったり、マフラーを縫ったりして楽しい時間を過ごしました。もしまた会うことができるなら、日頃の感謝の気持ちをちゃんと伝えたいと思います。おばあちゃんは服の会社で働いていた経験があり、服作りの専門家で、もっといろいろなことを教えてもらいたいし、一緒にたくさんの場所に行きたいです。
 おばあちゃんは、私が25歳のときに亡くなりました。私は生きることや死ぬことについて理解しているつもりですが、家族の逝去を経験するのは初めてでした。それで、平然と死を受け入れることや、死に慣れることは私にはできませんでした。
 今、おばあちゃんは天国で穏やかに過ごしていることでしょう。私の心の中のいつまでも大切な存在です。